特集・当事者の仕事(1/2)
〜飲食店経営・自営業〜人生の選択、決断と思い〜
今回取材に応じてくださったのは、大阪府阿倍野区の発達障害カフェバーDDbugsオーナー
森 恵史さんです。

今の仕事について簡単に教えてください
大阪の阿倍野区で発達障害バー、DDbugs(ディーディーバグス)のマスターをしています。
店のコンセプトは、同じ発達障害の人たちが集まり、当事者ならではの話をしたり聞いたり、共感し合うことができる空間を作ること。
ここがあることで、発達障害当事者の皆さんが普段の生活では出せないような本当の自分を心置きなく出すことができたり、
辛い気持ちから解放され、普段気を張って過ごしている分、自由に笑って話したりできる場所を提供することです。
以前はどんな仕事や生活をしていましたか?
20代前半の頃には、仲間達と一緒にダイニングバーをしていました。
今の店をするきっかけの一つでもありますね。
そしてそれと並行して、バンド活動もしていました。
その活動が終わってからは、現場作業や八百屋で働いたり、
電化製品のサポートなどの仕事、映像制作など、本当に色々なことをしていました。
他にも数え切れない程仕事をしていましたが、時間に融通が効いて、
短い時間で終わるような仕事なら8年ぐらい続いたものの、やっぱり、
長期的にしっかり続けられる仕事は少なかったです。
発達障害と診断されたのはいつですか?
初めて診断されたのは、38歳ぐらいの時でした。
元々、アルコール依存の疑いがあったので、病院へ検査を受けに行ったんです。
それで色々と検査を受けたのをきっかけに、先生から発達障害診断をされたのが最初でした。
仕事が続かず、定職に就けていない自分に対し、
先生のすすめで発達障害支援センターの職業訓練校に行くことになりました。
訓練を受けた時に、WAISの検査を受けることになったのですが、
発達障害のAD/HD、学習障害、アスペルガー症候群の診断をされました。
診断されたことで、何か変化はありましたか?
最初のうちは、自分では発達障害であることを認めたくない、という気持ちが強かったですね。
最初に病院で診断をされ、更に支援センターで受けた検査でもはっきりと発達障害だという結果が出た時に、
「やっぱり、自分には発達障害があるのか…」と深く落ち込みました。
職業訓練校を卒業した後も、自分の発達障害についてなかなか受け入れられませんでした。
自分が引き起こしてしまう問題の原因が、性格上の問題なのか発達障害の特性からくるものなのかの区別がつかず、混乱したり、物にあたったりしてしまう自分がいました。
その時期に離婚を経験しました。それをきっかけに、「発達障害と向き合わなければ」という気持ちが強くなっていきましたね。
離婚のきっかけが発達障害の特性によるものだと感じたから。
離婚の話の時に元奥さんから色々と言われましたが、自分では何がいけなかったのか、全く理解ができなかったです。理解ができないということは、人と感じ方や考え方に違いがあるからだろうと強く感じたんです。
自分の性格は個性だと思っていましたが、持っていていい個性と、
持っていて周りから理解されない個性があるのだと意識したことが考え方を変えるきっかけになりました。
発達障害を診断され、落ち込んでいたところに離婚を突きつけられ、子供に会うこともできなくなってしまった。
この時期の僕はどん底でした。

Q. そんな状況から、どうして今の仕事をしようと考えたのですか?
離婚する直接の原因としては、子供との関係が悪くなってしまったことでした。
だから、子供と距離を置く形で離婚をすることになりました。
それ以前から既に家族とは別居状態になっていましたが、元奥さんとはその頃も毎日会うほど関係は良好でした。
元奥さんは手作り雑貨店を営んでいて、彼女も僕も、地域とのつながりを大事だと考えるタイプでした。
住んでいた地域の環境として、裕福な人が多い土地ではなありませんでした。
だから、「人が集まることができて、地域に貢献できるような食堂をしてみてはどうだろうか?」という話になったんです。
最終的には子供食堂などもしたいと思っていたので、そのために調理学校に行くことに決めました。
ちょうど、新型コロナウィルスの流行が始まった頃で、調理学校は実技の習得が大切な学校なので、現地に行かなくてはならないことが大変でした。
まだワクチンもなかったですし、そんな中で調理学校に通い、料理について勉強しましたから。
調理学校に通うきっかけが「食堂を作ること」だったので、その頃は食堂をすることに固執していました。
それに、自分がアルコール依存だったこともあり、アルコールを提供するような仕事につくことは避けたい気持ちも強かったのもあります。
だから、その時点では「バーの経営」なんて頭に全くありませんでした。
その頃、1年間の断酒に成功していて、先生からも「もう大丈夫だろう」と言われていました。
自分でもアルコールとの付き合い方をコントロールできるようになってきたことで心に余裕がきてきた時、思いついたのが「発達障害バー」を開くことでした。
大阪で有名な発達障害バーもありますが、そんな存在があるなんて知リませんでしたね。
発達障害バーをやろうと思ってからそういう店があるということを知った感じです。
何故そんな考えになったかというと、自分が発達障害を診断され混乱している最中に離婚を経験したり、辛い思いをしている時、僕は孤独でした。
他の普通のお店に行っても、自分の辛い状況や、考えていることが上手く相手に伝わらなかったりしたので……。
話したいこともたくさんありましたが、自分が発達障害だと知り特性を理解していたので大人しくしている事がほとんどでした。
だって発達障害について知っているかどうかもわからない人を相手にそんな話はできないじゃないですか。
話を聞いてほしい、でも、誰にも相談できない。
とにかく孤独を感じていたんです。
僕が通った職業訓練校は地下鉄谷町線の沿線にありました。
そこから一本でこれる阿倍野にお店を開いて、集まることのできる場所を作れば……。
自分と同じように苦しんで孤独を感じながら居場所を探している発達障害当事者が気軽に集まれるような場所にできるんじゃないかって思ったんですよね。
自分自身が発達障害を診断されて、辛い思いをしているのに、それを人に言えず孤独を感じていたんです。
だから、きっと同じような人はたくさんいて、そんな人が集まって自分の気持ちを何も気にする事なく話せる場所があれば、きっといい場所になる。そう思いました。
元々ダイニングバーをやっていたので、どんな空間にすればお客さんがが落ち着くのか、ということも経験として知っていたし、その点では自信がありました。
社会からはみ出してしまったような気持ちで孤独に過ごしていた自分にとっても、そういった場所を作るということは社会の一員として参加し、貢献することのできる場所になる。
自分自身さえも救われることのできる場所になる、と感じたんです。