お取り寄せページ
コラム

【第1回】Dear friends 〜発達障害の悩みを抱える友人たちへ〜


日本で不登校に悩まされていた学生時代

私が発達障害(ADHD/ASD)と診断されたのは17歳の時でした。
幼い頃から活発ではあったものの、周りの同級生たちと馴染めず、大人と話をするのが好きな子どもで、同級生とは違う価値観や感覚、こだわりを持っていました。
だからか、私は周りから浮いた“変わった子”でした。

じっと机に座って先生の話を聞いていられない。
興味のあることはひらすら勉強できるのに、苦手なことはどれだけ説明を聞いても全く理解できない。
休み時間に同級生たちが楽しそうに遊んでいる遊びの何が楽しいのかが理解できず、一緒に楽しめない。

-私が学生時代に苦痛に感じていたことの一部です。

昔から本を読むことや勉強は好きでしたが、学校での集団生活に楽しみを見出せませんでした。
そのうちに、勉強だけなら家や塾でもできると考えるようになり、不登校になりました。
学校に自分の居場所を見出せず、学校行事が常に苦痛だったことを覚えています。

アメリカ留学という転機

そんな私にアメリカ留学という転機が訪れました。
元々、海外には興味があり、私を含め、両親も“不登校”という現状を打開したいという想いから留学を決めました。

アメリカでは、日本での学校生活とは違い、“誰かとは違う、ユニークであることはいいこと”だという考え方に衝撃を受けました。
アメリカでは、様々な文化を持つ人たちが生活しており、他人と違うことは当たり前です。
だから、日本にいた時に感じていた“みんなと同じようにできない”ということに劣等感を全く感じませんでした。

日本よりもADHDやASDの言葉の意味を知っている人は多く、
「発達障害?何それ?」
という人はあまり見かけません。
発達障害についてある程度理解しているので、学校で自分の苦手なことを伝えると適切な配慮を受けることができました。

色んな人種や文化が入り混じるコミュニティの中で、私が発達障害を抱えているということは特に重要視されませんでした。
“発達障害があったとしても自分は自分だ”という感覚が芽生えました。

アメリカのスペシャリスト教育

アメリカの学校では、日本のように全員が幅広い科目を全て学ぶことはしませんでした。
必要最低限の科目を学び、それ以外は自分の興味のある分野だけを学びました。
日本がありとあらゆることに対応できる、浅く広い知識を持ったジェネラリストを生む教育だとすれば、アメリカは、得意なことを専門的に狭く深く学んだスペシャリストを生む教育だと感じました。
どちらが良くてどちらが悪いと断言はできませんが、発達障害を抱える私には、無理に苦手なことをせず、得意なことだけを伸ばしていく教育方針が合っていました。

自分に苦手なことがあっても、それが得意な人はこの世界には必ずいます。
スペシャリスト同士がチームで働けばいい話です。
大人になり、社会人として働いてからはチームで働くことの大切さをより強く感じます。

周りの環境を変えてみて感じたこと

幸運なことに私にはアメリカでの環境が合っていて、留学で“発達障害をもつ自分らしさ“というものが分かりました。
日本で感じていた多くの障害は、アメリカでは不思議と感じませんでした。
なぜなら、その多くは”一般的、普通だと思われていること“から感じていた不自由だったので、他人と違うことが当たり前という社会では障害にはなりません

周りの環境を変えるということは、本当に難しいことだと思います。
でも、自分が今の場所で自分らしくいられないのであれば、思い切って転職する、住む場所を変える、付き合う人間関係やコミュニティを変えて、自分に合った環境で生きることが大切です。

今後、日本にいた私が留学生活を通して感じたことや考えたこと、また現在はアメリカ人の夫と日本で生活していて思うことなど、私の体験談をシェアできればと思います。

杉山ソフィア

ASD/ADHD当事者
日本で長年不登校を経験し、その後アメリカ、カナダへ留学。
17歳の時に発達障害の診断を受けた。
現在は、アメリカ人の夫と国際結婚後、大阪で”言語とアートと文化”をテーマにDOORというプロジェクトを立ち上げ活動している。
DOORプロジェクトSNS

この記事は役に立ちましたか?

『凸凹といろ。』のもうひとつのかたち。
原点である紙のフリーペーパーも、ぜひ手に取ってみてください。

凸凹といろ。編集部

これまで紙でお届けしてきた記事は、すべて「凸凹といろ。編集部」として掲載しています。 Webでも引き続き、編集部一同で大切に紡いできたストーリーをお楽しみください。

関連記事

お取り寄せページ
目次